僕の故郷は九州大分県の豊後大野市にある。ちょうど百名山のひとつ祖母山のおひざもとの旧緒方町だが、実はその祖母山には一度しか登ったことがなく、帰省した時に必ず足を運ぶのは、お隣、竹田市にあるくじゅうだ。
老いた両親が住む実家のちょっとした手伝いをするために、ここ数年、年に3~4回、定期的に帰っているのだが、今回の帰省が今年は例年より10日ほど早く見頃を迎えたミヤマキリシマとぴったりのタイミングだったので、何とか行きたいと思っていた。
今年は花が早いので梅雨入りする前の最高のタイミングで見ることができるかもしれないと期待していたが、帰省した翌々日、数日前に梅雨入りした九州南部に続いて北部までもが梅雨入り、気分の優れない曇天が広がり、東京に戻るまでの数日の間に、ミヤマキリシマを見に行けるのだろうかヤキモキしながら毎日、空を眺めていた。
翌日にはもう東京に戻らないとならない5月30日朝、前日の天気予報では降水確率が60%で、山に行けることを全く期待していなかったので、前夜また親父とちょっと飲み過ぎて、朝6時過ぎ、あまり良くない気分だったが起き上がって、念のため天気を確認するために玄関を出る。地面は濡れておらず、また雨も降ってないようだった。そして軒先から見える祖母山を眺めてみると、曇ってはいるものの高曇りで予想外に山姿がくっきりと見ている。おやっこれは。そこからさらに少し進んで、山姿は見えないのだが、くじゅう方面の空を見てみると同じようにそう最悪という天気ではなさそうな感じだった。
一気に目が覚める。どうして、もっと早く起きなかったかとちょっと後悔した。もしこの時間、すでに登山口にいたら少なくとも雨の降らいない状態でミヤマキリシマを見ることができただろうにと思った。そうは言っても仕方がない。今できることは急いで準備するだけだ。
全く行くと思ってなかったので準備に手間取り、朝飯も摂らず7時過ぎに実家を出る。どこから登るが迷ったが、何より一番、ミヤマキリシマが盛りの平治岳(ひいじだけ)へのアプローチに最も近い牧ノ戸峠先の大曲から登ることにした。
このミヤマキリシマの時期に平日とは言え、10台程度しか駐車できない大曲の駐車場に、この遅い時間に行って駐車できるかどうか心配したが、まだ数台分のスペースが残っていてほっとした。
コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら駐車場から見える山を眺めると、山頂付近は雲に覆われているが雨の気配もなく、何とか天気は持ちそうな感じだった。そして何より山の中腹は鮮やかなピンクのミヤマキリシマが咲いていた。これから登る、その何十倍もミヤマキリシマが群集している平治岳への期待が高まる。
とにかく天気が悪くならない間にと速いピッチで歩く。1時間ほどで法華院温泉に到着。雲が抜け見えている霞がかった平治岳の山頂がうっすらとピンク色に染まっている。情報としては得ていたが実際に自分の目で真っ盛りのミヤマキリシマを確認するとやはり感動する。
ここからミヤマキリシマ散策が始まる大船山と平治岳の鞍部、大戸越(うとんこし)までは1時間ほど、自ずと歩くペースもさらに早まる。坊がつるキャンプ場を進み樹林帯に入ると、ここ数日の悪天で酷くぬかるんだ山道が続く。くじゅう周辺の土はどこも本当に真っ黒な黒土で、滑って尻もちをついたりすることは避けたい。
次第に木々が低くなってきて最後にその樹林のトンネルを抜けると目の前に大きなミヤマキリシマの株が見え、その左上に目をやるとミヤマキリシマが咲き乱れた平治岳の尾根が山頂に向かって広がっていた。僕の語彙力では「美しい」「きれい」という単純な表現しかできないが、それ以外の言葉を見つけるのが困難なほど咲き誇った一面のミヤマキリシマの群集に言葉を失った。
天気も何とか持った。前にここに来たのは5年前だが、今年が当たり年なのか、または時期がまさにぴったりだったのか、その時よりもさらに鮮やかなように思えた。
平治岳の山頂へ向かうミヤマキリシマの回廊を写真を撮りながら登る。本来なら30分程度の道程だが、撮っても撮っても次の撮影場所がすぐに現れて中々歩が進まない。そうこうしていると次第に平治岳の山頂付近が雲に覆われてきて、ひとつのピークに登り切るとすぐに60~70メートル先までしか見えないほどに辺りは霧に包まれてしまった。
今日は、ここのミヤマキリシマを見るだけのために来たので、しばらくここで雲が抜けるまで粘ってみることにする。母が朝、作ってくれた弁当を食べる。自家製の大きな梅干しが入ったおにぎりにたくあんが添えられた田舎風弁当が美味い。
その弁当を食べ終わる頃になると雲が抜けるどころか相変わらず霧に覆われた空からポツポツと大粒の雨が落ちてきた。急いでカメラをビニール袋に入れてレインジャケットを着て、ザックカバーを装着した。
果たして天気は回復するのだろうか?もし数時間待って何も変わらなかったらとても無駄な時間を過ごしてしまった気持ちにならないだろうか。だったらもうミヤマキリシマは諦め下山、まったり温泉にでも入った方がいいのではないか?気安い選択肢が頭をかすめる。
そう言えば、ひとつ気になることがある。5年前に登った記憶では、確か最初のピークに登ったらちょっと平らな場所があって、その向こうになだらかな山姿の本峰があったように思える。そして、その本峰の山肌が本当にピンクの山と言っていいほど、ミヤマキリシマがきっしりと咲いていたような覚えがある。さらに山頂には「平治岳 1643メートル」という立派な標識があり、その標識の前で親父と一緒に記念写真を撮ったのを何よりよく覚えている。
そこに初めて平治岳に登ってきただろう御夫婦が声を掛けてきた。
「ここが山頂ですか?」
僕が数年前の記憶の中で思ったままのことを伝えると、きょとんとほとんど疑うような顔をして「あぁそうですかー」と答えた。霧で視界が100メートルもないので、それを確認することができないし、見る限り本峰がこの向こうにあるような気配は全くない。
その時、ほんの数秒間だけ雲が流れて、一瞬、霞んだピンクの山肌の本峰がその先に姿を現した。そして、その御夫婦もその瞬間を見ていて、僕がいい加減なことを言っていたのではないことがちゃんと伝わって良かったと思った。
再び山頂は霧に覆われたが、記憶をたどって本峰方面に向かって右側の小さい尾根にあった山頂までの道をミヤマキリシマの迷路のような回廊を歩き回りながら探す。確かこの辺りとミヤマキリシマの大きな株を掻き分けながら進むと、ちょっと下った先に、それまで以上のミヤマキリシマの群集が広がっていた。遠くから全体を映したミヤマキリシマの写真が多いので、一様にピンク色のミヤマキリシマのイメージだが、それぞれを見ると白く色の薄いもの、赤に近い濃いピンク色のものと、それぞれに本当に個性がある。
ものの10分程で本峰のピークに到着すると、そこには見覚えのある立派な平治岳の山頂の標識があった。時々、ちょっとだけ空が明るくなるような気配があるので1時間ほど山頂で粘ってみたが、残念ながら、小雨も降り続き、そこから一望するミヤマキリシマの景色を見ることはできなかった。
山頂を後にして、再び本峰全体を見渡すことができる側のピークに戻ってくる。良くない天気の中で、できる限り上手にミヤマキリシマの写真を撮ろうとあちこちで撮影していると、小雨は止み、雲が流れ、次第に本峰が見える機会が多くなってくる。明らかに天気は回復傾向のようだ。そして、14時前になると相変わらず上空は雲が広がっているものの、時折、どこからか陽ざしが差し込み、眼下に坊がつるが見えるようになってくる。
とにかく一挙手一投足の景色の移り変わりを撮り、この日だけで350枚近くの写真を撮った。それを家に帰って改めて見てみると、どれも変わり映えのしない同じ景色ばかりに見えるのは分かっているのだがー。
一瞬だけでも青空がピンクの山肌の本峰の向こう側に広がるのを最後の最後まで期待したのだが、そこまでの願いは叶わなかった。いやつい2時間前までは雨も降る天気だったのだから、そこまで期待するのは贅沢かも知れない。それは、また来年以降の次の機会とすることにしよう。
坊がつるのキャンプ場を過ぎ、法華院温泉から諏峨守越(すがもりごえ)に向かって登り返す。くじゅうで僕が最も好きな場所のひとつ静かな北千里浜の荒涼とした風景の中、とぼとぼと平治岳のミヤマキリシマの景色を思い出しながら歩く。
こんな鮮やかに染まる花の山を僕は他には知らない。素晴らしい故郷の山。この圧巻の景色を本当に多くの人に来てもらって見てほしいと心から思った。